Pocket Garden ~今日の一冊~

大人も読みたい、大人こそ読みたい、大人のための児童文学の世界へご案内

山から人生のすべてを教わろう

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『帰れない山』(2018年)パオロ・コニェッティ著 関口英子訳 新潮社

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今日の一冊はイタリア文学のこちら。

 

私が紹介するものはマイナーなのが多いね、と言われることが多く、自分はベストセラーとは基本合わないなあ、と感じています。が、今回、イタリアで30万部のベストセラーであるこちらを手に取ったのは、美しい表紙絵に惹かれたのと、ストレーガ賞&同賞ヤング部門受賞とあったから。ストレーガ賞とはイタリア文学界の最高峰なんだそう。そちらの賞と同賞のヤング部門をダブル受賞、つまり大人からも子どもからも絶大な支持がある、と聞いたら読んでみたくなるではありませんか。

 

これはねえ……ああ、出合えてよかった!!!

一気読み!ではなく、ゆっくりゆっくり味わいながら読了しました。

基本読むのは早いほうなのですが、時々こういうゆっくりしか読めない物語があるんです。サトクリフとかもそう。

 

静かに落ちてきた水滴が、ゆっくりと地面に吸い込まれ、やがて根に届くように、ゆっくりじんわり心の奥深いところに届く、そんな物語。

静かな感動と余韻に浸っています。

 

あらすじを述べるほどの事件は起きません。アルプスで出会った二人の少年の物語。それが、壮大な厳しい山の自然を通じて人生が描かれる。山好きの人はもちろん、思春期男子や男の人に勧めたくなるなあ。

 

あ、一つだけ残念な点があるのですが、ルビをもっとふってほしかった。そうしたら、高校生にも差し出しやすいんだけどなあ、って。見慣れない樹木の名前や、山用語……歩荷(ぼっか)なんかも読めないんじゃないかな。この読み方であってるのかなと思いながら読み進むのは、モヤッとしちゃうから……。

 

さて、この物語、いわゆるあらすじに書くような事件は起きないのですが、さまざまなテーマが盛り込まれています。

 

思春期の親子関係、不器用な男同士の友情、理想を追い求める男性と現実的な女性の違い、母になった女性の強さ、自分以外の子どもを我が子のようにかわいがること……などなど。誰しも、自分事として読める箇所があるんじゃないでしょうか。そこへ、人間の事情などものともしない大自然が威厳をもってとそびえたっているわけです。過酷ともいえるその状況ですが、自然はやっぱり恵み。自然の中で生きづらくしているのは、貨幣経済の介入のせいなんだなあ、としみじみ。余談ですが、口下手な父子のぎこちない関係性は、うちの義父(登山が趣味)と夫みたいで、他人事とは思えませんでした。義父は、主人公の父と同じく、頂上のみを目指し、後ろを振り返らずに、どんどん行ってしまうタイプ。義父母との登山は一度きりで、私は勘弁でした(笑)。

 

ところで、驚いたのは、古典のような佇まいなのに、主人公はうちの兄と同年齢という設定だったこと。1972年生まれ。同世代なんだと思ったことも、感情移入した一因かもしれません。え、それとも私たちの世代ってもう古典の域なの(笑)?昨日息子に、お母さんの高校時代って、テレビが出始めた頃?昭和でしょ?って聞かれました......

 

色んな思いや、色んな問いが交錯するけれど、ああ、もう感想書けなーい。

いわゆる感想は書けないけれど、読んでいる間、私は行ったことのない北イタリアのモンテ・ローザ山麓を主人公たちと一緒に歩き回り、鳥の声や川のせせらぎを聞き、水の冷たさを確かに感じました。センス・オブ・ワンダー全開です!

 

内容の感想は書けないけれど、読むと山の話がしたくなるので、もう自分の思い出話に浸っちゃいます。ここから先は、個人の思い出話なので、別に読まなくてもいいですよー(笑)。

 

後半、ネパールの山も出てくるのですが、私もネパールの山は学生時代の最後に登ったことがあるので、なつかしさに胸いっぱいになりながら読みました。

山ガールでもなく、なんならアウトドア派でもなく、装備もないのに、現地で会ったオランダ人の子と成り行きで普通のスニーカーで登ったネパールの山。

途中会った早稲田(←聞いてもいないのに大学名言ってきたのが印象的だった笑)のワンゲル部の人たちに「え、その恰好で?何者?」と驚かれました。それなのに、夜寒さに震えていた、彼らのうちの一人にエマージェンシーシートを貸してあげたのは、私のほうだったなあ。高山病にも彼らより私の方が強かった(笑)。

 

いや、マウンティング取ってるわけじゃなく、なんのこっちゃない、私は、ゆっくり登ったから、体力的にも余裕だったんですね。高山病で下山するのは日本人が多いんですって。決められた期間にゴールしなきゃ、仲間の速度に合わせなきゃと思って、ムリをするからだそう。私が登ってるときも、一人担架に担がれて下山していました……。欧米人はバカンスも長く、楽しみながら自分のペースで登る人が多い。ムリと思ったら、途中の村に泊まってゆっくり再開するから、高山病になりにくいんですって。何のゴールも気負いもなかった、私はゆっくり登ったのでした。

 

さて、カトマンズからひたすらおんぼろバス(途中山道落下しそうで死ぬかと思った)に揺られ、7時間。リゾート地とよばれるポカラに、こ、これがリゾート!?と驚いた私。そもそもアジア慣れしてなかったので、その埃っぽさや道にあふれるゴミなど色々カルチャーショックでしたが、数十分後にはもう居心地よくなっていました。人々があたたかかったから。

 

たどりついたアンナプルナ地方からはじめて見たヒマラヤ。驚愕だったなあ。

最初、雲に隠れて山々は下のほうしか見えなかったんです。で、雲の切れ間から山頂が姿を現したとき、ひっくり返りそうになるくらい驚いた。

えっ!?!?!?そこ!?!?!?って。

予想をはるかに超えた天空に山の姿が見えたんですもの。そこは、もう空ですよ、っていう位置。ただただ圧倒された。スケールが、今の子の言葉を借りるとレベチ。人間なんて、なんてちっぽけな存在なの!

 

そんなネパールで、私も主人公と同じく、何に一番惹かれたかというと、山そのものよりも、そこに息づいて根付いて暮らしている人たちでした。彼らの暮らしぶりを見ているのが、もう本当に楽しくて。土の床に座って作るお茶。赤ん坊を背負ったまま働く女性たち。シンプルライフ最高!文化人類学好きなので、フィールドワークでステイしたくなりました。

 

カラパタール方面に登ったときは、たくさんの登山家の人たちと話もしたなあ。

スタート地点の景色で、既に大満足の私。ある晩、頂上に惹かれる気持ちが私には分からなくて、登頂自慢をしていたおじさまに聞いてみました。なぜ山に登るのか。あるあるの回答が返ってきました。

「やっぱり征服欲かな。頂上にたって、その向こうに見える景色が見たい」

その人と話合わなかったな(笑)。

 

その方は、主人公のお父さんと同じく、一刻も早く登頂することだけが目的な感じで、途中途中の景色をぼーっと眺めては楽しむ私とは合わなかった。けれど、登山家が原因の山のゴミ問題の話などもして面白かった思い出。

 

そんな私はタンボチェ(3,867m)のというところで断念。スタート地点自体が標高が高い(2,800mくらい)ので、たいして歩いておらず、登山家の人たちから見たら、え、そんな入り口でもう引き返しちゃうの?って感じだったかもしれません。体力的にはまだまだいけたけれど、積雪があるのに防水でもなく、なんなら現地で捨ててこようくらいに思ってたスニーカーしかなかったから、そこでおしまい。私は山の頂上を目の前にして想像するほうが好きだったし、何より人々が暮らしている村が好きだったから、それ以上登ることにもあまり興味なかったんですよね。でも、タンボチェまでは行ってよかった。夜の帳が下りようとしていたのか、天気が悪かったのか記憶が定かではないのですが、どんよりした重い空気の中、静かで荘厳な暗い僧院は幻想的で、良い意味で色んな感覚がぼーっと麻痺していく。まるで夢の中にいるようでした。忘れられない体験。

 

高所恐怖症で、岩登るのムリー!下に激流流れてるのに板と板(しかも腐りかけてる)の間離れすぎてる吊り橋渡るのムリー!という箇所が何カ所かあったので、また登りたいかと問われると、もうムリなような気がする。その場で知り合った人に手つないでもらって渡ったりしたくらいでしたから。

 

でも、ヘリコプターで登って、ただ村人たちのところにステイするのだったら、またしたいなあ。『帰れない山』の主人公のお母さんと同じく、私はそこで頂上まで登る人たちの帰りを待ちたい。暮らしがあるって、素敵なんだもの。山荘の外のテーブルで、お茶のみながら、高原植物の美しさやそびえたつ山々を眺めたりするのが好き。とっても、豊かな時間が流れてました。

 

そして、何よりもあのとき食べたシンプルなアップルパイ!!!忘れられない。いわゆるバターたっぷりのサクサクパイとは違う代物で、もっとゴツゴツしていて、もっと味わい深い。あー、もう一度食べたい!あれ食べるためになら山に行きたい!結局食べ物の思い出になってしまう私(笑)。いや、すべてがね、山の思い出ってホントに特別なんです。

 

内容の感想は色々思いがありすぎて、書けず、ついつい自分の回想話になってしまいましたが、ぜひ。山好きの方なら、自分の体験談話したくなるんじゃないでしょうか。みなさまの体験もぜひぜひお聞きしたいなあ。

 

山に惹かれる人はもちろん、実際の山はちょっと……という人も、この物語が体験させてくれる過酷だけれど美しい自然に出合ってほしい。

心に染み入る物語です。

 

 

その感動はどんな感動なのか

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今日は、ちょっと徒然なるままに……(最後に児童文学の紹介もあります)。

 

先日ね、とある、大賞(大人の文学)を取った本を読み終えまして、ちょっと落ち込みました。あれだけ、みなさんが感動した!!!号泣でした!!!傑作!!!と言っているのに、私は一滴も涙が出ない……それどころか、うるっともしなかったんです。むしろ、色んなところに違和感さえ覚えてしまった。

 

批評するなんて、大それたことを、とも思うのですが、自分が感じた違和感は何か記しておきたいとも思ったのです。

 

この物語のコンセプトは、「声なき声に耳を傾ける」、というもの。その物語のコンセプト自体は好きだったし、この物語をきっかけにヤングケアラー(子どもが家族の介護をすること)、虐待、LGBTについて思いを馳せる人たちが出てくるという点では、とっても意義のある物語だと思いました。確かに、内容がセンセーショナルだからこそ(←いや、色んなテーマ盛り込みすぎだろとツッコみも入れたくなりましたが)、センチメンタルだからこそ、注目を浴びる面もありますしね。

 

じゃあ、どこに違和感を覚えたのか。本当に彼らのことを思ってたら、こういう表現はしないよな、とか、そういうところがいくつかあったんです。虐待やLGBTというテーマが、読者を感動させるために、持ち出された気がどうしてもしてしまって。ああ、ここで感動させたいんだな、ドラマ化狙ってるんだろうな、とか作者の意図が見えたとたん、冷めちゃったんです。続きが気になって、一気読みしましたが。

 

これが、ドラマか漫画なら素直に感動できたんだろうな。ドラマや漫画を決して、下に見ているわけではなくて、本とは役割が違うというか。ドラマや漫画ならキャラ設定がはっきりしてるのに違和感を覚えないのですが、それが文字で語る世界で行われると、私は違和感を覚えてしまうのです。人ってもっと複雑で、そんな単純にキャラ立ちとかするものじゃない。

 

もちろん、本は好みですから、どんな本でもいいと思うんです!

なのに、失望したのは、それが1位だったからというのもあるのかも。1位じゃなければ、うん、ありだよね、と思ったのかもしれない。名前伏せてるけど、もう何の本だからバレバレですよね(笑)。

 

その点、児童文学はものすごーーーーーく気を遣って書かれていると思います(マウンティングとってるわけじゃないけれど、こういう表現になってしまった)。もちろん駄作もたくさんあるとは思うのですが、j自国内での評価を経て、さらに海外にまで飛び立つ選び抜かれた翻訳文学は特に、そういうところが徹底している。実際にそういう思いをしている子たちが傷つかないように。彼らに失礼な表現がないように。

 

上記の大賞を取った物語は、色んなテーマがてんこ盛りでしたが、その中からヤングケアラーだけを取り上げるのなら、児童文学にはこんなものがありますので、過去記事からご紹介しますね。↓

matushino.wixsite.com

 

jidobungaku.hatenablog.com

 

jidobungaku.hatenablog.com

 

児童文学はシンプルです。センセーショナルにもセンチメンタルにも書かないので、地味にうつるかもしれない。けれど、登場人物たちのの心に本当に寄り添ったものも読んでいきたい、手渡していきたいと改めて思ったのでした。

絶版だけど、ぜひ

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『ボビのふしぎな発明』(1975年)レオニ・コーイケル作 熊倉美康訳 学習研究社

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今日の一冊は、もう絶版しているけれど、ぜひ図書館にあったら読んでみてほしいコチラ!オランダの物語。

 

私がこの本に出合ったのは、小学校2年の頃。当時大好きで、いまだに表紙を見るだけで、ワクワクな気分がよみがえるんです。

 

とはいっても、内容の細かいところはほとんど覚えておらず。

表紙絵にもなってるから、ボビが色々実験して発明した粘土で飛行船作って飛んだ、ということは覚えているのですが、実は、それ以外何も覚えてない(←昔読んだ本あるある)。

 

それでも!!!!ですよ。表紙見るだけで、ワクワクな気分がよみがえるって、考えてみればすごいことですよね?こういう幼少期の体験って大事だなあ、これが私を無意識下で支えてくれているんだなあ、としみじみ思う今日この頃なんです。だって、だって表紙見るだけで、気分が上がるんですよ?

 

そんなわけで、先日、ホーマーくんにハマってくれた三男へ↓

jidobungaku.hatenablog.com

 

次はボビをすすめてみよう!と意気込んだものの、表紙絵を見て三男の一言

 

“なんかこういう絵好きじゃないんだよね~。苦手―!絵がいやだから、読まないっ”

 

えー!?!?この手の絵のものは、外れなく面白いのに!!!

 

母、撃沈。

 

小さかった頃は、作者や翻訳者なんか興味もなかったけれど、この手の雰囲気の絵のものは間違いない、という物語に対する嗅覚みたいなものはありました。自分の好みじゃないけど、でも、この手の絵のものは絶対に面白い!!!そんな確信。

例えばコチラとかね↓

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  『トムは真夜中の庭で』(1967年)フィリッパ・ピアス作 高杉一郎訳 岩波書店

 

というわけで、今回、私自身が子どもの時以来、読み返してみたんですよ。

うん、文句なしに面白いではないですか!

 

いろんなものを混ぜて、魔法の薬を作るということだけでもワクワクするし、当時はレモン水(多分、レモネードのこと?)という言葉にもワクワクしてたことがよみがえってきた。

 

今の子が読んだら地味なのかな?

現代の物語あるあるのように、すごい事件が起こるわけでもない。でも、よくある兄弟同士のけんかや、会話が楽しくて。ありえない話なのに、とても自然ですっと物語の中に入っていけるんです。安心して読める。そう、これこれ、この感覚!

 

子どもの頃は記憶に残ってなかったのですが、今回大人になってから読み返してみるとボビたちが森の中で出会った、世捨て人のような変わり者の小男が一番印象的でした。

大人は嫌いで、子どもだけを歓迎してくれる不思議なひげもじゃの小男。

大人になったから読むと、彼の純真さに、心打たれた。

 

そして、彼の出す不思議なお菓子(実は、コガネムシのケーキとイモムシのパン)ですら、気持ち悪いと思わずに、美味しそうと思えちゃうんだから、物語の力ってスゴイ←ただ、食いしん坊なだけ?

 

どれだけ、ワクワクできる物語に出合ってきたか、それが何かのときに支えてくれてるよなあ、と改めて思ったのでした。

ダークな気分になりたいときに

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『サキ ー 森の少年(世界名作ショートストーリー)』(2015年)サキ著 千葉茂樹訳 理論社

 

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今日は中高生以上におすすめの短編のご紹介。

 

人って、光だけじゃ生きていけないというか、ある程度“闇”を抱えていたほうが自然な気がするのは私だけ?

 

特に思春期のモヤモヤした時期って、きれいなものだけを提示されるとかえって嫌悪感や反発心を覚えることもありますよね。いやいや、世の中そんなキレイじゃないだろう!きれいごとは十分!って。ダークなものに惹かれる。

 

あと、自分の中に闇がないからこそ反対なものに惹かれることもありますよね。清純派の子が不良に惹かれたり(ちょっと違う?笑)、おとなしい子がロックに惹かれたり。

 

そんなとき、さらりと読めてダークな気分を味わえるのに、今日の一冊はぴったり。

 

個人的には、あまり短編集って読まないし、サキも初めて読んだのですが、手に取ったのは訳者が千葉茂樹さんだったから。千葉茂樹さんが訳すもの好きなんですよね。翻訳者から読む本を決めること、多いんです。

 

ダークですからね、ひとつひとつの後味は決してよくないです。清らかな気持ちにも、もちろんなりません(笑)。不気味で不穏で、冷酷さもあるけれど、どこか品があるんですよね。子どもたちの間でよく読まれている、〇分後シリーズもありますが、それなら、サキすすめたいなあ。

 

投げやりな気分のときとかに、サキ読んだらスカッとするのかも。

ああ、中高時代の自分に読ませたかったな。

 

今の私は、ダークなものは疲れちゃうので(笑)、短編ならこちらも好き。安定の岩波少年文庫。ホッとしたい方はこちらがおススメです↓

 

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『天国を出ていくー本の小部屋〈2〉』(2001年)エリーナ・ファージョン著 石井桃子訳 岩波書店

 

この中に出てくる“サン・フェアリー・アン”というお話がすごく好きなんです。

 

短編集って、気合いれなくてもさらりと読めるのがいいですよね。すき間時間、電車やバスの待ち時間などなど。気分にあわせて、サキでもファージョンでも!

 

 

 

死の悲しみを乗り越える

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『さよなら、ママ』(2016年)キャロル・ガイトナー著 藤崎順子訳 早川書房

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今日の一冊はこちら。

世の中の大半の人は、自分よりも先に親を見送ることになると思うのですが、中には早くに親を亡くす子もいます。そのツラさはなかなか想像できなくて、なんて声をかけたらよいのか、かけないほうがよいのか分からなくて迷ってしまう。

 

そっとしてほしい遺族に対して、手紙を書いたのは果たしてよかったのか?触れられたくない相手の心に、ずかずかと踏み込みむことになったのではないか?ずっと気にかかっていたところに、このタイトルが目に飛び込んできたのです。

  

『さよなら、ママ』内容

 

コリーナはワシントン郊外に住む13歳の女の子。いたって普通のはずだったのに、コリーナの世界はある夏を境に突然崩れてしまった―そう、ママがガンで亡くなってから。悲しみで抜け殻みたいになったパパ。何事もなかったようにふるまう友だちもいれば、無神経な言葉を投げつけるクラスメートもいる。がんばって普段の生活を続けようとするけれど、ふとした瞬間にママを思い出して、涙が止まらなくなったりする。恋だってしたいし、おしゃれだってしたいのに、「ママがいない」ことが、コリーナの生活を変えてしまった……。母親を亡くしたひとりの少女が、心の痛みを受け止め、恋や日本への旅を通して悲しみを乗り越えていく姿を四季を通して追った、心せまる小説。対象年齢、10歳以上。(出版社HPより転載)

 

重いテーマですし、YA(ヤングアダルト、中高生向けの分野)って下手するとセンチメンタルになりがちなので、実はちょっと警戒しながら読んだんですよね。というのも、同時期読んでいた大人の小説が、こうしたデリケートな話題をセンチメンタルに扱ってて、不快感を覚えたから。

 

でも、こちらは、よかったです。作者のキャロル・ガイトナーさんはグリーフケア(喪失体験)の専門家として幅広くカウンセリングにあたってきたそうです。

ああ、だからか。

読者を感動させるものとして、このテーマが利用されてる感を一切感じなかった。

もちろん、みんながみなこの物語の主人公コリーナのように感じるとは限らないし、ケースバイケース。

 

ただ、この物語を読んでひとつ分かったことは、

 

“なんと言葉をかけたらいいのか分からないけど、想っています”

 

ということだけは伝えたほうがいいということ。

 

コリーナはなかなか難しい。でも、きっとこれが大半の子。気にかけてくれる人に対しては、“放っておいてよ、おせっかい!”と感じる一方で、何も言ってこなかったり、その話題を避けられたりするのにも複雑な思いを抱く。話題にされたくないと思う人に限って聞いてくるのに、一緒に語り合いたいお父さんはその話題に触れてくれない。痛みに寄り添うって、本当に難しい。

 

寄り添ったつもりが、おせっかいと煙たがられるかもしれない。でも、それも行動を起こさなければ分からないこと。たとえ距離感の取り方に失敗したとしても、それを恐れずに、やっぱり歩み寄りたい、って私は思いました。もちろん、相手が嫌がったら、すっと引くことには注意して。

 

原題は“IF ONLY”なのですが、もしあのとき〇〇さえしとけば、〇〇さえ言っておけば、〇〇だったならば……たくさんのif onlyという後悔が、残された者たちには駆け巡りますよね。コリーナがお医者さんを責めたくて手紙を書いた気持ち、分かるなあ。

私も母が救急搬送されたときのお医者さんの冷たさに傷ついたし、伯父が亡くなったときは葬儀場でへらへら笑いながら煙草吸ってた坊さんにふざけるな、と思ったのを思い出しました。

 

あ、でも、簡単に“分かる”と言われるのが一番嫌だそうです。その人の気持ちは、その人にしか分からないですもんね。

 

そんなコリーナは、最初は嫌だなと思っていた、同年代の子たちとのグリーフケアグループに次第に心を開いていきます。病死、戦死、交通事故死、自殺などなど親の死因もそれぞれで、誰が一番つらいとかそういうことじゃない。If only…みんな〇〇さえなければ、〇〇じゃなければ、という気持ちに押しつぶされそうになっている。

 

やっぱり時間が解決するしかないのかもしれない。

でも、気持ちは押し込めずに、誰かと悲しみをシェアすることも大切なんだな。

詮索好きなおせっかいな誰かとではなく、本当に心に寄り添ってくれる誰かと。

後者になれたらな。

 

ところで、ある先生にね、コリーナはこんなことを聞くんです。”母親がいないことに慣れるものなのか?”と。先生は、こう答えます。

 

「はいといいえ。両方ね。でもね、忘れちゃいけない大事なことがあるの。あなたのお母さまも、わたしの母も、わたしたちの一部になってる。母の愛情は、子どものなかにいつまでもあるのよ。誰もそれを奪うことはできないわ」(P.166-167)

 

そう、故人は私たちの一部になってる。だから、故人の素敵だったところ、生きてる私たちが引き継いでくんですね。遺族の気持ちが分かるなんて言えない。でも想像して思いやる、その想像力は失いたくない。

 

グリーフケアといえば、こちらの本もよかったです。↓

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『命日占い』(2020年)かげした真由子著 サンマーク出版

いわゆる占いの本という感じではありません。私自身は、あまり占いには興味がないというか、むしろ縛られたくないと思ってしまうほう。ですが、こちらは故人からのメッセージを受け取れたような気がして、読んでいて救われました。

 

あとは、しつこいようですが(笑)、藤井風くんの『帰ろう』ですね。

毎晩聞いて、亡き友思って泣いてしまいますが、浄化された気持ちになれます↓

www.youtube.com

 

 悲しみに蓋をするのではなく、悲しみを抱きながら、それでも日々の小さな輝きや喜びに目を向けていく。だって、私たちは、故人の分も生きてているのだから。

中高時代に触れたい視点

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『14歳からの社会学 これからの社会を生きる君に』(2013年)宮台真司著 ちくま文庫

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今日の一冊は、高1長男から渡されたこちら。

ちなみに、渡した当の本人、長男は未読です~(笑)。

 

 宮台さんの本を読んだのは初めてなので、よく分からないのですが、この本の中で対談している作家の重松清さんによると、この本は宮台さんにしては珍しく、ストレートに語りかけてきているらしいです。「本気」モードらしい。

個人的には、若者には読みなれているであろう“横書き”が読みにくかったです。

 

この本は合う合わないがあるだろうなあ、と思っていたら、思いのほかレビューは高評価だったので逆に驚きました。私は合わない部分のほうが多かったので、感想は多少辛口になりがちかも。宮台さんファンの方は、不快な思いされるかもしれないので、これから先は読まないでくださいね。

 

■問いかけの少なさに反発心?

 なんだろ。共感できない部分が何カ所かあったからか、心に残るものがあまりなかったんですよね。宮台さんの出した答えが、ずらずらと書かれていたからなのかも。

 

“問いかけ”が少ない。

 

色んなことに対して、宮台さんが言い切ってるところが、個人的には苦手だった。

でも、語尾に「かも」などをつけることは、逃げ道を作ってるともいえるので、言い切る=自分の発言に責任を持っているともいえるのかもしれない(←ね、こういう風に“かもしれない”という書き方)。だけど、私は生きてきて途中で何回も価値観変わってきているので、いまの自分の考えが“絶対”だなんて自信が持てないんだよなあ。

 

校則に関するところとか、そうかな?と思うところも断言されてるのが気になる。「こうとはいえないか?」などの提示や問いかけがほとんどない。

 

働くことに関するところでは、宮台さんが提示する形も一つの現実的な考え方ではあると思うし、知ることも大事。でも、まるで妥協せよと言ってるみたいにも聞こえる。なんだかなあ。与えられた場所で、自分らしく全力を尽くせというのは賛成だけど。それは、もがいたあとでもいいのでは?言い方なのかなあ。なんか見くびられてる気がしちゃう。

 

上から目線までとはいかなくとも、この方からは読者への信頼が感じられないんだよなあ。

 

■学問的な解釈に出合う大事さ

とはいえ、中高生で社会学的に物事を見ようとする子は少ないというか、そういうものの見方があることすら知らないと思うので、こういう本、こういう視点に触れるのはとても刺激的でいいことだと思います!

 

自分だけの問題かと思っていたら、実はこれが社会の問題だったのか、と知る。それだけで、開けるように感じる子もいると思うんです。

 

理解できるかできないかは関係ない。こういうアカデミックな考えに触れるのって、ゾクゾクしますよね!

 

■若者にケータイ小説が読まれる興味深い理由

さて、内容に関してだと、 個人的には、なぜ若者がこんなにケータイ小説ばかり読むのかということの理由なんかは、とても興味深かったです。

 

彼女たちは、現実の人間関係に期待していないから、「レイプ」とか「妊娠」とか「流産」とか「癌で死ぬ」とか、そういう現実にはめったにない「事件」に反応して泣くんだ。

中略

 濃密な人間関係を経験したことがないから、濃密な人間関係がえがかれた古いタイプの小説や映画にふれると、彼女たちは「自分がはじかれてる」と思ってしまう。そんな彼女たちが望むのは、「ディープな関係」ではなく、「ディープな事件」を並べた作品だ。

中略

 そこでは「関係」ではなく「事件」だけが問題だ。だから登場人物は入れかえ可能な「記号」にすぎない。(P.86)

 

相手が固有名詞を持った、誰とも入れかえられない存在になるのは、非日常の「事件」ではなく、日常の「関係」の積み重ねのおかげだ。(P.87)

 

確かに、一理あるかも。児童文学なんかだと、登場人物と読者の間にも「関係」が作られるから、そんなすごい事件が登場人物の身にあったら、数日立ち直れないなんてこともありますもん。いい物語に出合うと、読了後も登場人物たちが心に住みついちゃいますからね。

 

ところで、恋愛のところで、愛を得るためには傷つく覚悟が必要、と書かれているのですが、これ友情でも同じだなあ、って。SNS上でつながっているつもりになっているけれど、生身の人間として対峙することが少ないと、本当には関係は築けてはいないんですよね。先日ご紹介した、こちらもあわせて読むとさらに興味深いです↓

jidobungaku.hatenablog.com

 

ただね、余談ですけど、ナンパで100人以上の女の子と関係を持ったことを、恥ずかし気もなく書いちゃう宮台さんの神経が分からない。愛が分からなかった、と書いてるけど、人数書く必要性を感じなかったな。これご本人ちょっと武勇伝に感じてますよね(笑)?

 

■脱社会的存在のおそろしさ

 もう一つ興味深かったのは、脱社会的存在のおそろしさについて語っていたところ。

なぜ人を殺したらいけないのかが分からない、という子が普通にいるそうです。自分が自分であることにとって、他者たちの存在が無関連であるような人間たちが出てきた。「尊厳」が他者たちとの交流を経由していない、といってもいい、と著者。そして、こういう脱社会的存在の人たちが若くても凶悪犯罪を犯すのだ、と。

 

他者たちとの交流と無関連なまま自己形成できるような社会はおかしい。

ここには賛成です。

 

ただ、気になったのが、社会学用語なのかもしれないけれど、「承認」という言葉がやたら使われていたこと。

いまの時代、「承認」という言葉を聞くと、SNS上とかでよく聞くところの承認欲求のイメージが強くて。他者からの「承認」を得るために、必死で動かねばと勘違いする子がいそう。

 

他者とのつながり、関わりによって自己を知るという表現のほうが、個人的にはしっくりくるなあ。自分のことをちゃんと見ていてくれる人がいるというのは、とても嬉しいこと。人間は他者との関わりの中で、つながりを感じて喜びや生きているという実感を得るというか。「承認」と同じことを言っているのかもしれないけれど、受ける印象が違う。

 

■複数の学問から見てみよう

 そんなこんなで、個人的に思ったのは、社会学からだけで世の中を見ない方がいい、ということ。確かに社会学は面白いし、とても意義のある学問だと思う。

だけど、すべてをそこに当てはめようとするよりも、もっと多角的に見たほうがいいという気持ちが湧きおこってしまうのは、私が学生時代とった学科間専攻の科目の中で、唯一社会学原論だけが不本意にもBだったから(笑)?アンソニー・ギデンズとかも、一応読んだんですよ、昔。懐かしい。

 

社会学が、人間が作っている社会という枠組みの中で考えるから、個人的に息苦しさを感じるのかも。

 

文化人類学や、文学、哲学、心理学やその他の学問からも眺めてみるのが大事なんじゃないかなあ。いろんな角度から見る。リベラルアーツ

 

■結論:この本をすすめたい子、避けたい子

早熟な子をのぞき、一般的な14歳にはこの本、難しいです。でも、こういう考え方があるということに触れること、中高の教科書以外の学問の世界に触れることは大事だし、真摯に向きあってくれる大人の言葉に耳を傾ける機会は大事。

 

でも。個人的には宮台さんの主張を押し付けられた気がした。エリート思想的なところも、言わんとしていることは分からなくもないけど、もうちょっと言い方ってもんがあるでしょうよ、と頭にきちゃった(笑)。

 

ここにちゃんと疑問を持てる子はいい。自分で新たな問いをたてられたり、本当にそうかな?と思える子はいい。そういう子にはおススメ。

 

ただ、うちの長男みたいに、よく言えば素直、悪く言えば何でも鵜呑みにしがちな子にはおすすめしないなあ。

 

もうちょっといいところを書きたかったのですが、時間がたてばたつほど、辛口になってきちゃいました(笑)。読んだことのある大人に、感想伺いたいです。

 

要注意!:大人になっても言ってはいけないこと

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『ノーム 不思議な小人たち』(2017年)ヴィル・ヒュイゲン文 リーン・ポールトフリート絵 遠藤周作・山崎陽子・寺地伍一共訳

 

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今日は自分の失敗から、要注意なことを書きますね。

このブログは基本大人しか読んでいないと思いますが、もし学生さんで読んでいる人がいたら、ここから先は読まないでくださいね。

 

今日の一冊は、こちらのブログでも何回か紹介しているこちら!

 

ノームと呼ばれる小人の生態がつぶさに描かれています。

オールカラーで、とにかくワクワクするんです。自然と共にある暮らし。

 

もうもう楽しくて、小学生の頃から何度読み返したことか。

うちにあるのは、まだサンリオ出版だったころの大型版ハードカバーで、当時で4,800円だったから結構しますよね。いまは、サイズもやや小さくなり、ソフトカバーになって、お値段もお手頃の1,980円。個人的にはこの内容は、ハードカバーに合ってるとは思うのですが、多くの人の手に渡ることを思えば新装版になるのかな。

 

どれだけ好きだったかというと、うちの玄関ニッチにいまでもレリーフ飾ってるくらい↓

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実家から持ってきた(笑)

 

 

で、本題なのですが、先日、知人とどの本が好きかという話になったんですね。

そしたら、『ノーム』というではありませんか。

まさかの!特に児童文学好きな人でもないと思っていたし、大人の口から出ることはめったにないので、もう嬉しくて。大興奮。

 

しかし、あのあとがきは、ないよねー、って話したんです。

だから、私は人に勧めるときは子どもにはあとがきは見せないようにするか切り取っちゃって、と言ってると。

 

そうしたら、彼女はあとがきは全く記憶に残ってなかったらしく、泣き出してしまったんです。いまのいままで、この瞬間まで本当にいるって信じてたのに、って。

 

び、びっくり。

 

ああ、なんてことを私はしてしまったんだろう。

でも、同時に何か通じるものがあって、嬉しかった。大人なのにこんなことで泣くなんて恥ずかしい、としきりに彼女は言ってましたが、恥ずかしくなんてない!

 

そんなわけで、このブログを書くことで、第二の彼女を生み出してしまうかもとも懸念しました。でもね、私が言わなくてもあとがきにしっかり書いてあるんですよ。

 

「この本のすべてが、全くの冗談で、うそばかりだったということを」

 

って。それでも、自分は信じつづけると訳者の山崎さんは書いていらっしゃいますが、それ大人には通用するかもですが、子ども時代の私がどれだけあの箇所をうらんだことか。あのあとがきをなくしてほしい、といまでも思っている。だって、可能性を消してしまうから。あえて、ブログに書いてるのは可能性消してしまう人が増えてほしくないからなんです。(伝わりますように!)

 

で、そのあと彼女が「サンタクロースだって、私いまもいると思ってる!」と言ったんですね。

ええ、そうなんです。

不思議なんですけど、私もいまでもいると思ってるんです。事実と真実は違う。

うちの親は、娘の私が親になってからも、時効だから……といって「あの時はねー」なんて絶対に言わないでいてくれたんです。だから、私の中での可能性は消えない。

 

でも、これ「実はね」と言っちゃったらおしまいなんです。

中学生の男の子だって、親から聞かされたとたん、大号泣したという話を聞きました。「知ってるけど、言ってほしくなかった」って。

 

話を戻しますと、そんな彼女をなぐさめながらね、ふと気づいたんです。

なぜ、原書の作者があとがきにわざわざそんなことを書いたのかということを。

 

こちらの、ノーム、あまりにもリアリティがあるんですね。1年に1度しか現れないサンタクロースと違って、ノームは人によっては身近に住んでいるかもしれない。必死に探し出すいたずらっこや、きっとこれをビジネスにしようとする大人が動き出すと懸念したのではないでしょうか。

だから、“あえて”うそばかりと書いた。そうに違いない!!!
彼女も納得してくれました。

ノームはいる。一周回って可能性はあるという結論。

 

可能性を消すようなことだけは、大人になっても言ってはいけない、そう改めて思った事件でした。