Pocket Garden ~今日の一冊~

大人も読みたい、大人こそ読みたい、大人のための児童文学の世界へご案内

受け入れて初めて前進

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『わたしは、わたし』(2010年)ジャクリーン・ウッドソン作 さくまゆみこ訳 鈴木出版

 

今日の一冊はこちら。

正しいことをしたはずなのに、どうしてこんな目に?一体どうすればよかったというの?理不尽さに、胸がしめつけられるような物語ですが、最後には希望の光が一筋見えます。

 

鈴木出版の海外児童文学、この地球に生きる子どもたちシリーズは、考えさせられるものが多くて大好き!さくゆみこさんの翻訳されるものにもハズレなしです。

 

『わたしは、わたし』あらすじ

トスウィア(12歳)は、年子の姉キャメロンと優しくて誠実な警察官の父、料理上手で生徒たちみなから慕われている教師の母と、穏やかで幸せな日々を暮らしていた。ある事件が起こるまでは。

ある日起こった白人警察官による無実の黒人少年射殺事件。警察官の父が、悩んだあげく同僚の罪を証言したため、トスウィアの一家は突然全てを奪われることになる。裁判で重大な発言をした者が、危害を加えられたり殺されたりしないように保護する制度「証人保護プログラム」によって、一家の安全は守られるのだが、それはつまり、名前、故郷、過去全てを奪われることを意味していた。アイデンティティをすべて失った家族の喪失と再生の物語。

  

実話ではありませんが、残念ながら似たような事件がアメリカ各地で起こっています。やるせない!

 

 

■極限状態で問われる人間性

 

恐怖は人をおかしくさせる。

 

ただ、黒人というだけで、無抵抗なのに襲われると思い込み、発砲してしまう警官たち。

何とも言えない気持ちになるのは、この警官たちも普段は人種差別者どころか、人種を超えて楽しい仲間だったからなんですね。極限状態に陥ったとき、人は人間性を問われるんですよね。戦争なんかも当てはまります。いままで友人だった人たちが敵になる。

 

さらに、何とも言えない気持ちになるのは、同僚たちの夢や誇り(=未来)を奪うことになるんだぞ、と同僚の警部が説得に来るところ。一瞬(一瞬ですけどね)確かにと思ってしまった自分がいてゾッとしたんです。無意識下で、黒人の人生よりも白人の人生のほうが大事だとでも思っているのか!?

 

何もないときは友情が育まれるんです。でも、保身に走るとき、白人の命のほうが黒人の命よりも重い、と無意識下思って入る人々が露呈してしまう......。

あからさまな人種差別者はバカで無知なんだなと思えるけれど、普段善人だと思って入る人々の無意識の差別は本当にキツイ。自分が留学していたときのことも思い出しました。本当にキツかったのは後者のほうでした。

 

 

 

■それでも前進する

 

偽名で新天地で暮らし始めるトスウィア家族には試練が待ち受けています。エホバの証人にハマる母。警察以外の仕事は考えられず、追い詰められていく父。それでも、現状を抜け出そうと自分で自分の道を切り開く姉と妹。

 

子どもはスゴイです!

 

もうね、受け入れるしかないんですよね。

 

なぜあの時あの場に父さんはいてしまったのだろう......。それに尽きるのですが、もう現状を受け入れるしかない。受け入れなければ、前進もできないのです。

 

この重いテーマの物語は、私はまず大人に読んでもらいたいなと思いました。

その理由は、前回も書いたように、今が満たされていない子どもには受け留める余裕はないと感じるから。↓

 

jidobungaku.hatenablog.com

 

ましてや、世界にはもっとひどい目にあってる子がいるんだから、あなたもがんばれ!なんて、メッセージを送りたい大人の下心を感じたら、子どもたちはそっぽを向くんじゃないかな。

 

だから、子どもがふとした興味を持ったとき、すっと差し出せるようにしたい。

勇気をもらえる物語です。

 

 

衝撃!我が子は戦争好き

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『明日の平和をさがす本 戦争と平和を考える絵本からYAまで300』 〈編・著〉宇野和美・さくまゆみこ・土居安子・西山利佳・野上暁 2016年 岩崎書店

 

司書さんや図書ボランティアに携わっている人じゃなければ、ブックガイドなんかはあまり読まないかもしれません。

でも、コチラはおすすめ!

 

≪この本のポイント≫
◆ 2000年以降に刊行された子どもの本・約5万冊から厳選した最新版
◆ 対象年齢・読みどころが、子どもの本のプロにより、しっかり紹介
◆ ブックトークに役立つよう、キーワードをたくさん掲載するなど工夫満載
◆ 本の舞台となった地域MAPや舞台となった時代年表・索引が資料として添付

 

とポイントは色々あるのですが、一番大きいのは「正しさの押しつけになっていない」という点です。

 

 

さて、驚くほどトップニュースに出てこないのですが、本日8月6日は何の日か。

 

我が家にはテレビがないので、ネットが主なのですが、出てこないんです……ヒロシマ原爆の日である今日のニュースが。

吉本やジャニーズの内部事情なんてどうでもいいんだけどなあ……。

 

うちの父は広島出身なので、テレビつけてもNHKくらいしかやってない!年々忘れられていく!と憤っていました。

 

そんな我が家ですが、子どもに戦争の本当の姿を伝えるのは実に難しい。先日、中2長男にこんなことを言われました。

 

「僕ね、戦争映画は好きなんだ~。カッコイイし、敵が殺される場面見るとスッキリするんだあ!」

 

…え!?衝撃。

 

でもね、無邪気にそう語る長男を前に、黙り込んでしまう私です。

「いやいや!!!」と言いたくなるけど、グッと言葉を飲み込む。

ここで否定しはじめたら、長男はきっともう私に自分の素直な気持ちを話してくれなくなるでしょう。

 

以前書いた記事、私の兄がメンフィスベルを見たときに私に問いかけてくれたようなことを長男にも言いたい。↓

matushino.wixsite.com

でも、今の長男はまだ自分が否定されたとしか受け止めないだろうなあ。まだ、ね。

 

思うのですが、他人への想像力を持てる子って、自己肯定感が高くて、余裕のある子なんじゃないかな、と。もちろん一般化しちゃいけないのかもしれないけれど、自分の子を見ていてそう思うのです。

 

以前とっても自己肯定感の低かった長男(今はいい感じに回復途中)、他人のことを思いやる余裕なんてありませんでした。自分のことでいっぱいいっぱい。

 

まずは自分が満たされなければ、他人を思いやる余裕がないことを分かってなかった当時の私は、それが悲しかった。私自身は満たされて育ってきていたので、長男の気持ちがぜーんぜん分からなかったんですね(←他人への想像力ないじゃん、とツッコミ)。長男が荒れに荒れまくって、色んなことを教えてくれて今に至ります。

 

長男にとって、戦争映画は分かりやすい成長物語、サクセスストーリーにうつるのでしょう。分かりやすい友情や家族愛、祖国愛、感動が描かれていますから。

 

でも、児童文学の戦争文学を読むと、ニュースや教科書からは見えてこない人々の思いが浮き彫りになる。

勝利に見えても真の幸せには結びつかなかったり、戦争の終わり=平和の訪れ、ではないことが分かります。人々の心は何年も何年も暗い影を落とし続ける。敵を殺すことは、スッキリすることではないことが分かる。

いかに一般の人たちにとっては、不条理なことだったかが分かる。戦争とは愚かなことだと分かる。

 

児童文学者&翻訳者の清水真砂子さんやさくまゆみこさんがおっしゃっていました。退屈する子どもにとっては、戦争はエンターテイメントになる、って。いまが満たされていないとひっくり返したくなるのが人間だから、それは戦争につながるんですよ、と。

だから、一見何悠長なことやってるんだと思われるかもしれないけれど、子どもたちの今を満たしてあげること、幸せだなあ、この日々を守りたいと思う日々を過ごさせてあげること、それが平和への道なんですよね。

 

無力感やあきらめの気持ちが強くなると、思考が停止し、ただ上(国)の意見に従うほうが楽になっていく。

 

大人ができることは、「これが正しいんだよ」と教えるというよりも、その子が満たされた日々を過ごし、自分で判断できる力、感性を養う手助けをすることなんだなあ。根っこの部分。

 

先ず“生きる喜びを”。

 

 

 

 

幽霊に育てられた少年の物語

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『墓場の少年 ノーボディ.・オーエンズの奇妙な生活』(2010年)ニール・ゲマン作 金原瑞人訳 角川書店

 

今日の一冊は、物語の世界観に没頭したい時におすすめのコチラ!

 

現実世界に息苦しさを感じているとき、ファンタジーってどこか風穴を開けてくれますよね。目に見えているだけが全てじゃない。自分の知らないところで何かが活躍してると思うと、なんか救われるんですよねえ。

 

《『墓場の少年』あらすじ》

この子をノーボディと名づけよう―。ある夜、一家が殺害された。たったひとり、生き残ったよちよち歩きの赤ん坊が迷い込んだのは、真夜中の墓地。この日から、墓地の幽霊たちの愛情溢れる、世にも奇妙な子育てが始まった…。幽霊に育てられた少年の冒険と成長を描き、カーネギー賞ニューベリー賞をダブル受賞した、ゲイマンの最高傑作。

(BOOKデータベースより)

 

 

毎日暑いですしね。なんだかお墓と聞くだけで、涼しい風が吹いてくるような気がするので、夏にぴったりの一冊かもしれません!?

 

私が読んだのは上記のハードカバー版でしたが、今年に入って文庫版も出版されました。

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その関係で、先日の銀座教文館ナルニア国のメールマガジンの中で熱く紹介されていたので、読んでみました。普段はこういった殺人事件なんかが出てくるものは苦手なんですけどね、信頼できる筋からの紹介の影響力って大ですねー。

ああ、この物語好きです!一気読みでした!

 

ちなみに児童文学の賞を受けていますが、地元の図書館では児童でもYAでもなく、一般のコーナーに置いてありました。

 

 

■ 色んな人がいるから豊か

 

さて、墓場といったら陰鬱なイメージですが、ここに出てくる幽霊たちのあたたかいこと。といっても、善人ばかりじゃありません。怒りっぽい人がいたり、ひねくれていたり、困った人だったり、実に人間くさい(幽霊だけど笑)。

 

日常生活を送っていると、ともすると怒りっぽいとかその人の個性を治そうと私たちはしてしまいがち。けれど、物語を読むと色んな人がいるからこそ豊かである、と気付かされます。それもあるのかな、この墓地の暗さは、実に居心地のいい暗さなんですね。

 

そして、嬉しいのは、巻頭に登場人物一覧があること!

アラフォーにもなると、登場人物豊かすぎると覚えられないんですよね……特にカタカナの名前(笑)

 

そんな幽霊たちの中でも、特に私のお気に入りは、ライザ・ヘムストックという魔女。

彼女が埋められているのは、無縁墓地と呼ばれる罪人や自殺者、異教徒用の聖別していない土地なのですが、色々な人生があるなあ、となんだかしみじみしてしまうのです。

 

人々から誤解され、疎外されていた人々。いないものとされ、墓石すらない人々。声なき者たちは、声を聞いてくれる人が現れるだけで、変わっていくような気がします。変わっていく、とはいっても、やっぱりひねくれているところが、リアリティがあっていい(笑)。主人公ポッドとの友情もじーんときます!

 

 

■ 想像の余地が残されてるからこそいい

 

この本がいいなあと思うところは、それぞれの背景を詳しく書きすぎていないところなんです!こちらに想像の余地を残してくれる。

 

例えば、どんな墓地にもあるという食屍鬼(グール)の住みついている墓。面白くない出来事が重なってふてくされたポッドは、ふらっとグールたちについて行ってしまうのです。そこに出てくるグールたちが歴史上実在した人物たちなのですが、なぜこの人がグールに選ばれたのかな、と興味が出てくる。いわゆる悪名名高い人たちではないんですよね。アメリカ第33代大統領とか、ヴィクトル・ユゴーとか。ええっと何しでかしたんだ?思わず調べてしまいます。

 

鍵となる人物たちについても、さほど詳細は記されてません。

ポッドがすねる一因ともなった、美味しくない料理を出すミス・ルスぺクは、一見魅力がないのですが、実は神の猟犬と呼ばれる種族。彼女は一体どういう人生をいままで歩んできたのだろう。描かれていないからこそ、思いを馳せる。彼女の言及はほとんどないのに、すごい存在感!

 

でも、おそらく一番人々を魅了するのはポッドの後見人となったサイラスでしょう。

生きてる人とも死人とも違う。その両方の世界を行き来できる狭間にいる人。どちらの世界にも行き来はできるけれど、どちらにも属していない孤高の存在で、感情が時折しか見えない。

 

最後に、サイラスがポッドに自分の過去についてほんの少しだけ触れる場面があるのですが、そこにグッときてしまいました。具体的には何があったとは書いていないんですよ?でも、人それぞれに背負ってきた過去ありなんだなあ、と。大好きな『ナゲキバト』のラストを思い出しました(『ナゲキバト』についてはコチラ)。

 

ファンタジーではあるけれど、とてもリアリティがあるのは、作者の頭の中で作り上げた物語というよりも、ちゃんと墓地を取材してそこからインスピレーションを得て書かれているからなんですね。

 

肉体を持つ命を生きてるって素晴らしいこと。

読み終えると、ああ私も自分の人生を生きよう!とポッドの成長に励まされる物語です。

 

 

 

一緒に考えさせてくれる本

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『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』(2019年)ブレイディみかこ作 新潮社

 

今日の一冊は文学ではなく、話題のノンフィクションから。

子どもと見る風景”のkodomiruさんが熱く語られていたので、書店を探し回りました。

 

内容は、イギリスで暮らす著者の息子さんが通う元・底辺中学校の日常を綴ったもの。学校のシステムから文化的背景や環境が日本とは随分違うなあ、と思わされる一方で、そこで起きていることを“我がこと”のように感じさせてくれる貴重な本だと思います。とても他人事とは思えない。

 

扱っているテーマは、教育、人種、アイデンティティから政治に関することまで、結構難しいというか深いのですが、文体は堅苦しくなく、とても読みやすい。なので、気負わずに読めます!

《『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』あらすじ》

 

大人の凝り固まった常識を、
子どもたちは軽く飛び越えていく。
世界の縮図のような「元・底辺中学校」での日常を描く、
落涙必至の等身大ノンフィクション。

優等生の「ぼく」が通い始めたのは、人種も貧富もごちゃまぜの
イカした「元・底辺中学校」だった。
ただでさえ思春期ってやつなのに、毎日が事件の連続だ。
人種差別丸出しの美少年、ジェンダーに悩むサッカー小僧。
時には貧富の差でギスギスしたり、アイデンティティに悩んだり。
世界の縮図のような日常を、思春期真っ只中の息子と
パンクな母ちゃんの著者は、ともに考え悩み乗り越えていく。

連載中から熱狂的な感想が飛び交った、私的で普遍的な「親子の成長物語」。

(出版社紹介文より)

 

もし、6月に開催した“愛しき思春期アホ男子母会” の前にこちらを読んでいたら、母たちへのおススメの一冊には間違いなくこちらを選んでいたなあ。

親子の会話がいいんです!こういう母ちゃんに私もなりたい。そして、息子くんが実にしなやかで素晴らしいんですよね。

 

いつの時代だって、子どもたちは成長しつづけている。そして、実は一番良く物事を見ている。曇りのない目で。

それを表現する言葉や機会を持たないだけで、子どもたちのなんて頼もしいことか。

一方で、大人に影響されて言動がミニ大人になっている残念な子どもたちもいる。差別的発言も、周りにそういうことを言う大人がいるから。大人のせいなんだなあ、と改めてしみじみ。

 

ところで、この息子くん、小学校は公立ながらカトリック系の進学校という守られた環境の中で過ごしていたんですね。でも、中学は同じカトリック系には進まなかった。

そして、息子くんが選んだ多様性に富んだ元・底辺中学校の様子を著者と共に見て追体験していると、似たような人種(家庭環境)しか集まらない環境のほうがなんだか歪んでるのでは?という気分になってきます。

 

私自身も中高は私立の女子校に通っていたので、似たような恵まれた家庭環境の子の集まりの中にいました。当時の私はこわがりだったので、多様性に富んだ環境の中でやっていけたかと問われると自信がなくて、親ではなく自らの意志で守られた環境を選んだのです。が、自分が母となって、ママ友という形で、いままで出会わなかったような人とたくさん知り合いになり、いかに自分の世界が狭かったかに気づかされました。そして、中高のころの私だったら、絶対に近寄らないであろう人々と知り合いになり、彼ら彼女らの人間性の豊かさに触れて驚いたものです。

 

今の私だったら、ブレイディみかこさんと同じような中学を選ぶだろうなあ。ただし、それは支える側の大人・学校が素晴らしい、という前提があってこそなのですが。

 

どこの学校でもやってこれなかった問題児ばかりが集まるけれど、この学校に来たとたん不登校ゼロ!という奇跡のような大阪の公立小学校のドキュメンタリー『みんなの学校』を思い出しました。こちらの映画もとにかく素晴らしいのでぜひ!子どもがいるいないに関わらず、会社勤めの男性陣にもすすめたい。多様性ってどういうことなのか。自分とは違う相手を受け入れるって、どういうことなのか。

 

minna-movie.jp

 

子どもたちはいつだってしなやかなんです。子どもを導いてあげようなんて、もはや傲慢な気がしてきます。大人がやっきになって何かを教えようとしなくても、子どもたちは案外自分で発見して気づきを得てゆく。じゃあ、放置しておけばいいのかというとそうではなくて。理解ある大人たちがいないと、やっぱり潰されていってしまうんですよね。ただの荒れた学校、地域になってしまう。大人の役割は、子どもたちが安心して自分を出せる場所を作ることなんだな。そして、答えを教えるのではなく、一緒に考える。

 

内容はどれも興味深いのですが、特に差別やいじめに関する息子くんの考えには、うならされるものばかりでした。

 

お子さんがいるいないに関わらず、価値観や自分の中の正しさが凝り固まった大人は、ぜひご一読を!

 

 

どうする!?世界を変える科学の発明

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『14番目の金魚』(2015年)ジェニファー・L・作 横山和江訳 講談社

 

自由研究に頭を悩ませているお子さんも多そうな夏休み、今日の一冊は科学への興味の入り口になりそうなコチラ。

ニューヨークタイムズ・ベストセラーBOOK、Amazon.comベストブック・オブ・ザ・イヤー2014(9歳~12歳)だそうです。

 

長崎訓子さんのポップなイラストがぴったりの軽快な文体によるドタバタ劇。でも、ちゃあんと考えさせるところは考えさせます。

 

《『14番目の金魚あらすじ』》

 11歳のエリーの元に、ある日ママが風変りな少年を連れてきた。横柄な態度、時代遅れのファッション。なんとそれは、不老不死の薬を開発し、自らを実験台としたエリーのおじいちゃんだった!13歳に若返ったおじいちゃんと一緒に学校に通い、科学の魅力に開眼していくエリー。でも、みんなが永遠の命を手に入れたら一体どうなっちゃうの?科学への憧れを持ちつつ、「生命」のサイクルについて、エリーは考え始める。

 

 

■ 科学への興味の入り口に!

 

エリーはいわゆる洞察力が鋭いとか、熟考するだとか繊細なタイプではないんです。でも、自分の中に湧き起る小さな疑問から目をそらさない。等身大の自分で、ちゃんと物事を見極めようとして、自分の言葉で考える(だから、変に小難しくないところが良い!)。

 

おじいちゃんの変に子どもっぽくて、頑固なところもコミカルで面白いです。

軽い感じで進んでいくので、本が苦手な子でもいけそうですし、私のように理系アレルギーの人でも科学の魅力を知れる気がします。いや、やっぱり興味は正直湧かないんだけれど(笑)、でも、科学の魅力に憑りつかれる人の気持ちはこれを読むと分かります。←ココが読書のすごいところ!自分の世界にはないものも受け入れられるから。

 

 

■ 科学の恩恵とその後を考えさせてくれる

 

ところで、日本人なら“ん?”と引っかかるところが出てきます。

それが、エリーが原爆は戦争を終わらせた素晴らしい科学の発明だと思っているところ。

アメリカでは、いまだそう思ってる人が多い事実を知ることは衝撃でした。ちょうど先月話題になった、アメリワシントン州の高校のキノコ雲のロゴに誇りを持っている町に疑問を呈した日本人留学生の話が話題になっていたのを思い出しました。ぜひ、こちらもご一読を↓

 

newswebeasy.github.io

 

ものすごい引っかかりを覚えたまま読み進めて行くと、大丈夫、ほっとします。

 

エリーの好きな化学の先生がスーパーの前で署名活動をしているところにエリーは遭遇するのです。先生は核兵器反対の団体で活動しているのですが、そのパンフレットには

 

ヒロシマ。戦争のはじまり。」

 

と書かれていたのです。エリーは混乱します。あれ?原子爆弾は戦争を終わらせたのよね?

それに対する先生の答えが押しつけがましくなくていいなあと思いました。

 

「そうかな?原子爆弾が、より大きな戦争の引き金になったとは思わないかい?次の原爆がいつ落とされるかわからない状態になったんだよ。ひとたび魔物を外に出したら、びんのなかにはもどせない。」(P.153-155)

 

質問することにより、先生はちゃんとエリーに自分で考える余地を残しておいてくれている。余地があるから、エリーはそこから自分なりに調べ始めるのです。原爆が落とされたその後について。

 

■ 「生命のサイクル」から見える希望

 

原爆のことがきっかけで、世界を変える発明の科学は、世界をどう変えるのか。良くするのかダメにするのか、エリーは考え始めます。そして、不老不死の薬を発明して喜んでいるおじいちゃんに疑問を呈するのです。

 

大人になるのって、人生って、そんなにひどいものなの?

 

エリーの心からの叫びは胸を打ちます。ああ、私たち大人は子どもたちが大人になりたいと思うような大人として生きているだろうか。

 

エリーの叫びでおじいちゃんは目を覚まします。「生命のサイクル」に気づくのです。

永遠に続くのが素晴らしいのではなくて、終わりがあるから次につながる。そこにあるのは、絶望ではなく、希望なんですよねえ。

 

だから、児童文学ってやっぱり好きです。ちゃんと希望を見せてくれるから。

 

やっぱり気づかせてくれるのは「愛」なんだなあ、っていうことを、クサくくならずに、軽快に感じさせてくれる物語でした。

 

 

 

暗ければ暗いほど星は輝く

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『片手いっぱいの星』(1988年)ラフィク・シャミ作 若林ひとみ訳 岩波書店

選挙結果には落ち込み、胸がきゅーっと縮こまっています。

 

毎回、落ち込むんですけどね。またかあ、って。

周りの熱量を感じ、今この国が変わりたがっていることを感じ、今度こそ変わる!と思うのに……。

 

しょせん、変わらないのかな、と弱気な心が出てくることも否定できない。

 

そんな気分のときに読み返したいのが、今日ご紹介するコチラ。

 

舞台は1960年代のシリア。政情不安がつづく首都ダマスカスで、紙とペンで権力にたちむかおうと、ジャーナリストへの道を模索する少年の日記

 

です。暗く時代の重いテーマなのですが、淡々と描かれていることも影響してか、この物語には不思議な爽やかさと軽やかさがあるんです。

 

一日一日がとても短い日記形式なので、すき間時間に読みやすいのも嬉しい!

忙しい大人にもこれならすぐ読めますよ、と差し出したい。

 

ダマスカスの路地の埃やコーヒーの香り、土煙が手に取るように感じられ、日本の昭和初期の下町人情にも通ずる民衆文化も魅力的です。

 

さて、この物語の中心ともなるジャーナリズム。

 

今回の選挙に限らないのですが、最近の(メジャーな)ジャーナリズムというものにどうしても不信感を抱いてしまう。すごく偏った、誰かさんに気を遣った情報しか流さない。ええ、それはもうビックリして呆れるくらい。ジャーナリストたちはもはや誇りを失ってしまったのかな?とすら思ってしまう。

 

いや、真実を暴いている人もたくさんいらっしゃいます。

でもね、色んな真実がある中で、それって重要?と思うことを追いかけている。

 

“暴く”という、その字が示すように当事者たちのことを思いやることもなく、土足で人の家にずかずかと入ってくるような暴力的な感じの記事が多い。確かに、真実(というより事実と言いたい)を追求しているのかもしれない。でも、それ、本当に世の中を良くしようと思ってやってること?って感じてしまうのです。

 

もちろん、誰にでも間違いや、そのときはそれがベストだと思っていた、ということはあって、何が世の中を良くすることなのかも人によって違いはあると思うのです。でも、権力者に気を遣って情報の印象操作をすることは明らかに違う。高潔な精神、ジャーナリスト魂はどこへ行った?

 

この『片手いっぱいの星』の主人公は、貧しいパン屋の息子で、父親は学問への理解がありません。それでも、親以外の理解ある人々と出会い、ペンと紙で自分の道を切り開いていくのです。抑圧勢力と闘い続ける。

 

日本でも今のメディアを見ていると、言論の自由が抑圧されているなあと感じるのですが、この当時のシリアはもう悪夢のようです。作者のラフィク・シャミはシリアからドイツに亡命して、物語を書いた作家さんです。

 

タイトルにある“星”とは、アラブでは希望を表すそう。あたりが暗ければ暗いほど、情況が過酷であればあるほど、星の輝きは明るさを増すのです。

 

今回の選挙、結果には歯がゆい思いをしましたが、星たちの輝きは明るさを増してきた気がします。

 

どんなに閉ざされているように見える道でも、良き仲間に恵まれれば、自分で切り開いていくことができる。とても勇気づけられる物語です。

 

 

 



選挙なんて行っても意味ない

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『あのころはフリードリヒがいた』(2000年)ハンス・ペーター・リヒター作 上田真而子訳 岩波書店

 

選挙なんて行かなくていい。

だって、どうせ変わらないんだから。

 

正直、他に悩むこといっぱいで、政治になんて興味ない。

興味持つ余裕もない。

 

ただでさえ、「空気読め」と言われて言いたいこと飲み込んでいる毎日なのに、投票したからとて一体何が変わるというのか!?

 

“今のままではヤバイ!ヤバイ!”と騒いでる人たち、感情的になってバッカみたい。

 

……そんな若者の声が聞こえてきそうです。

 

若者が選挙に行かないというけれど、バリバリに働いている世代も同じような気がします。日々追われていて、気付けば選挙日過ぎていた・・・告白すると、私も過去にありましたもん。

 

でもね、今のままでは本当に日本は危ない。

そして、今ならまだ間に合う。変えられる。

 

感情的に捉えることを、人はネガティブに捕らえがちですが、“本当に残酷な世界は理性的な世界なんだ”、と絵本・児童文化センターの講義で以前教わり、ハッとしました。

 

今日の一冊、『あのころはフリードリヒがいた』は、ナチス時代の胸が苦しくなるような物語なのですが、人々がどう洗脳され、高揚していくかが見事に描かれていてゾッとします。その場にいたら、自分は正気を保てるか自信がないから。

 

ここで注意したいのは、民衆は感情的になっているかもしれませんが、政治家は理性的だという点。この物語には年表がついていて、法律や告示や命令が交付された日付が並べられているのですが、いかに戦略的に理性的にジワジワとユダヤ人の人たちを追い詰める体制を整えていったかが分かります。理性だけの世界では、心を失っていく……。

 

いまの改憲を押進めようとしている政治家たちがと重なり、それはそれはゾッとしました。

 

ところで、児童文学に関わっている人たちは、政治的な声をあげる人が多いんですよね。

 

なぜか。

 

子どもの未来を真剣に考えている人ばかりだから。

そして、今の社会を作っているのは大人であり、それを解決することを子どもに責任転嫁するのは違うと考えている人たちだから。

 

一方、いま権力を握っている人たちはどうでしょう?

未解決の問題、未来への宿題を「それは未来の世代が考えればよいこと」と堂々と言ってのける人たちです。責任転嫁のかたまり!

 

自分一人が動いたって、何も変わらないかもしれない。

でも、動かなければ変わる可能性も発生しない。

 

 

「私の行いは大河の一滴に過ぎない。でも、何もしなければその一滴も生まれないのです」(マザーテレサ

 

7月21日(日)の選挙は、その一滴を生み出す日。

 

本当の愛国心って、国から押し付けられるものじゃない。

非国民と言われるのがコワイから、ではなく、自らの内から湧き出てくるもの。

誇りを持てる国は、自分がありのままの自分でいられて、心から愛さずにはいられないような国。そんな国を作るのは、やっぱり私たち一人一人の小さな行動からなんだなあ。

 

どんな国にしたいのか。どんな自分でいたいのか。

どんなビジョンを持った、誰にそれを代表で託したいのか。

いまなら自分で決められます!