
今日は改めて、児童文学と小説の違いって何だろうと考えてしまったので、そのことについて。
先日とある人気作家さんの小説を読んだんです。
舞台は男子校の寮。年末年始に帰宅しない子たちが一緒に過ごす数日間。
思春期のヒリヒリ。
ちょっと謎めいた展開もあり、一気読みでした。面白かったです。
やっぱり、どんなに学校で一緒に過ごしていても、同じ釜の飯囲んで夜も一緒に過ごすと違いますよね。いつもと違う条件、メンバー、環境になると、相手への理解度がぐっと高まるから不思議。
普段“キャラ”というものに押し込められていたもおのが、崩れたり。
ああ、たった数日でも人間関係は変わるし、分かり合えたりするんだなあ、と最後はちゃんと希望のある物語でした。
でも、なぜだろう。
同時になぜか後ろめたさのようなものも感じてしまったんです。
なんだろう、生々しかった。
時代設定は違うけれど、同じく有名な男子校の寮の物語といえば、児童文学の分野では、ケストナーの『飛ぶ教室』。こちらだって、現代では考えられない殴り合いが出てきたり、まあ大人からすれば結構ひどい場面も出てきて、前述の小説に負けず劣らず、しっちゃかめっちゃか。でも、後ろめたさは感じないんです(個人的には)。
私の中では、前述したお話は“小説”であり、『飛ぶ教室』のほうは“児童文学”。
だから、なんだ、って話なんですけど、読み終えた後に残るものが何か違うなあ、と改めて感じたのです。
前者の小説では、複雑な家庭環境が描かれたり、各人の内面にもちょっと踏み込んだりするんですよね。それが、なんだか見てはいけないものを見てしまったような……彼らの聖域を犯して、彼らの物語をエンタメとして消費してしまった気がして、後ろめたかったのかもしれません。
一方で、児童文学といわれる物語たちは、複雑な家庭環境も出てくるし、心の葛藤も出てはくるけれど、わりとさらっと描かれていることが多いように思います。
さらっと描かれてるから、人によっては読んでいて児童文学は物足りなく感じるのでしょう。
でも、描かれていない部分を自分で想像する余地があるんです。
行間を読むから、さらっとしてても心に深く残るのかもしれない。
ただ、うちの子には『飛ぶ教室』は読みづらい。最後まで読めない。
と言われました。
小説には小説の良さがある。
大人のものはお好きにどうぞ、なんですけど、子どもが出てくるもに関しては、色々考えてしまうのでありました。