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今日の一冊は、なかなか示唆に富んだこちらのファンタジー。
■あらすじ
物語の舞台は、とある悲しみに覆われた町。その町のそばにある森には悪い魔女が住んでいて、その魔女が悪さをしないようにするために、毎年赤ん坊を一人生贄としてささげなければならないという慣習があったんですね。当然、母親は悲しいけれど、町全体を救うためには仕方ない。でもね、本当はその赤ん坊たちは善良な魔女ザンによって救われ、ほかの町で養子として幸せに暮らしていたんです(ほっ)。
じゃあ、一体、黒幕は誰?
何のためにこんなことをしているの?
ある年、生贄にされた赤ん坊にうっかり月の光を飲ませてしまった魔女ザン。少女は、強力な魔法を持ち始めますが、まだそれを理解し、使いこなせる年齢ではないと判断したザンは魔法をルナが13歳になる日まで閉じ込めます。
そんなルナの13歳が近づいてきたある日。もともと生贄に心を痛めてはいたものの、傍観していた大長老の甥っ子であるアンテインは、ついに生贄の順番に我が子がまわってくるとを知ります。手放すなんて考えられない!魔女と戦うことを決意するアンテイン。そこへ真の黒幕が近づいてきて......。さあ、どうなる?
2017年のニューベリー賞受賞作。
■世界は自分が思っているのとは違うかもしれない
実は、個人的にあまり手に取らないタイプの表紙絵でした。魔法系の物語って、ご都合主義のイメージ(←すみません、偏見です)があって、ふだんあまり惹かれないのですが、なぜか今回こちらを読んでみようという気になったのです。
あらま、いまの自分にはピッタリの本でした。私の直感Good job!(←自画自賛)
このコロナ禍じゃないときに読んだら、特に響くことなく読み終えていたかもしれません。ちょっとここはご都合主義かな、とか、この登場の意味がよく分からないとかいうところもなきにしもあらずだったので、そんな粗ばかりに目がいってたかも。でも、おかしな世の中の時期に読んだからか、そのへんは置いておいて、自分に必要なメッセージを受け取れた気がします。
今回、個人的に一番響いたのは、主人公ルナではなく、大長老の甥っ子という立場のアンテインの成長でした。ルナはルナで周りから愛されて育ってきて、読んでいるだけでほほえましいんですけどね。
さて、アンテイン。彼は、大長老に使えていたので、毎年生贄の場面に同席しなければいけないんです。これが、彼にとっては心苦しくて苦しくて。毎年新しい言い訳を作っては逃げていた。そして、自分ごときが止めようと思っても、できるわけがない、そう思い込んでいて傍観していたんです。
ところが、ですよ。ある日、アンテインは片思いをしていた女性エサインと結ばれるんですね(おめでとう!)。このエサインがすごかった。ブレない。自分は孤独な人生を送ると思い込んでいたのに、エサインと一緒に暮らしはじめたら、世界はアンテインが思っていたのとは全然違っていた。あの思い込みが、こんなにも違っていたのなら、ほかのことも違うかもしれない、そうアンテインは思い直すようになるんです。
魔女がみなが思っているようなものでなかったら?
いけにえが、みなが思ってるものと違っていたら?
いけにえを止めたらどうなる?
次々とわきおこってくる問い。
エサインという“愛”を得たことで、希望を持ち、行動を起こそうと考え始めるアンテイン。
これ、分かるなあ。私の場合はですね、全然ケースが違うのですが、キリスト教の環境に育ってきて、キリスト教がもう“絶対”だと思ってたんです。でも、そうではない、世界は自分が思っていたのとは違っていたと、ガラガラと価値観が崩れていったときのショック。あ、キリスト教をいまでも否定してるわけじゃないんです。でも、絶対ではなかった。真理に至る道は色々あっていいことを知った。ここまで、絶対だと思っていたものが違うのなら、ほかのことも違うかもしれない。こういう体験があってから、今自分が思い込んでるものに対して、本当にそうかな?と問いかけるようになりました。
■不安から自由になる
さて、翻訳者のあとがきによると、魔法がテーマに見えるけれど、もう一つのテーマは「支配とコントロール」なんだそう。
実は、森には町の人が信じているような悪い魔女はいなくて、本当の黒幕は、自分たちのそばにいたんです。黒幕は、“悲しみ喰らい”といって、人々の悲しみを食べて生き延びる。その正体は、意外な人でした。その人は、保護領の住民の心を悲しみで覆い、支配していく……。
ん?これ……なんだか、今の世の中と似ているかも。悲しみではないけれど、今の世の中は“不安”で覆われている。不安に支配され、それを利用している人たちが確かにいる気がするんです。
私は心配性なので、ともすると不安に陥りがち。不安になってるときの推測や判断って、間違ってることが多いなあ、と後から気付くことが多いんです。悪いことのほうを信じやすくなってしまい、その当時は思考停止してたな、って。だから、冷静でいたいな、って思います。不安から自由になれるように。その不安を誰かに利用されないように。“問い”を持てる自分でいたい。
■一人の行動が周りを変える
ところで、いざ何か違うかもと違和感を持ったところで、何もできないと思いがちですよね。立ち向かう壁が大きければ大きいほど。だから、私たちは傍観してしまう。この物語で、何がすごいと思ったかってね、アンテインが魔女殺しに行く許可を得に、長老会に出向いたものの、他の人を巻き込もうとしなかったところなんです。エサインの場合は、かつての仲間に投げかけはしましたけどね。
まあ、アテイン自身が自分の考えに自信がなかったというのもありますが、他の人を誘ったり、ましてや、みんな目を覚まそうよ、なんて言わなかった。世界を変えようとするのに、仲間を募るのではなく、たった一人でのぞんだ。だからこそ、他の人たちもあれ?って、誰かにすすめられたからではなく、自ら疑問を持ち、自ら希望を持ち始めたんです。
あとがきで、こんなことが書かれていました。
”被害者”でいることをやめた住民たち。すると、加害者は加害者でいられなくなる。
わ、これすごいなあ。相手を変えようとするよりも、自分の意識をまず変える。善悪二元論じゃないから深い!
不安も伝染するけれど、希望も伝染する。さあ、一体私自身はどちらを伝染させたいのか。そんなことを問いかけられた気がしました。
最後に、ブレないエサインの言葉をどうぞ↓
「希望というのはね、……(中略)……春が来る前に顔を出す最初の木の芽のようなもの。固く閉ざされていて、命がないように見える。でも、そのうち膨らんで、大きくなる。やがては、あたり一面が緑に染まるわ」(P.170)
いま希望が見えないように思えても、それはまだ木の芽の状態なのかもしれない。
“問い”を持つことを忘れたくない、そう思わせてくれた物語でした。