Pocket Garden ~今日の一冊~

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不登校児という言葉は時代遅れ

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『バーバーパパのがっこう』(1976年)A・チゾン、T・テイラー作 山下明生訳 講談社

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今日の一冊は、こちら。

先日、私の周りで話題だったこちらのニュースに出てきたものです!こちらのスピーチ、素晴らしいので、ぜひリンクに飛んで全文読んでみてください。 ↓

news.yahoo.co.jp

 

岐阜に出来た公立の不登校児専門の中学校。公立というところが素晴らしい。

40名の定員に対して、120家族が説明会に参加したそうです。ニーズの高さよ!

 

やっと、やっと時代がついてきた……!いや、まだまだだけど、でも、希望の光。

全国に広まってほしい。不登校の子を、元の学校に戻すことだけが目的になってるのって、違いますよね。必要としてる子が通える範囲に、こういう学校の選択肢があってほしい、これからの時代は。

 

でもね、“不登校児”という言葉の響きがね、なんだかもう時代遅れな気がするんです。

ネガティブな響きがある気がして。

 

”革命児”とかでもいいんじゃない!?いままでフタをされてきたものに風穴を開けてくれる、新しい時代を切り開いてくれる革命児。

 

それに、環境になじめない子がこんなにも増えてきたのだから、学びの環境の選択肢を増やすのは、大人の仕事ですよね。うん。

学校って、ただただ我慢を学ぶ場じゃないですよね。我慢って、時には大事だけれど、果たして、学校のそれは我慢するに値する内容なのか、と考えてしまう。自分が学びたいものの中で訪れる試練や我慢しか、成長にはつながらない。

 

子どもに問題があるんじゃない。体制に問題がある。

でもね、そう思っても、行けない子やその家族は苦しい思いをするんです。

 

だって、不登校のうちが苦しむのは、少なからず“世間の目”や“周りの無理解”だから。

だから、世間一般の考え方も変わらないと、と思うのです。

 

それに、不登校に理解あるつもりでも、いざ我が子が不登校になると、親はどうしていいか分からなくなるんですよねえ(うちはそうだった)。

いつまで続くんだろう、このままだと将来どうなっちゃうんだろう……負のスパイラルに陥る。やりたいことがある子が不登校になるのならいいけれど、やりたいことがなくて、YouTubeやゲーム漬けなのはどうなの!?って。

 

そういうときに検索してしまうネット情報は、“魔物”だなと思います。

さらに不安に陥るような情報ばかりがアンテナに引っかかってしまうので、見ないほうがいい。

 

だから、こういう学校や、この京大准教授のスピーチみたいなものをもっと大々的に取り上げてもらいたい!!!不安に陥っている人たちの目に留まるように。希望の光が見えるように。

 

スピーチの中でこんなことが述べられています。↓

 

いま学校現場は、たくさんのことを要求されています。グローバル人材、スーパーサイエンス、SDGsさらにプログラミング。これを全部できたら、スーパーマンにしかならないですよね。そんな大人は町の中に何人いるのでしょうか。

 

そんな大人が見当たらないにも関わらず、なぜかみな、学校に、たくさんのことを要求してしまいます。すべてを学校にやらせすぎな気がします。学校がやるべきことは、子どもたちの学びの機会を奪わないことです。子どもたちが学びたいと思ったときに、学べるような環境を用意することだけが唯一、学校に課せられた使命です。学びを嫌いにさせるのはもってのほか、絶望しそうになったときに学びを諦めない、そんな子どもたちに育つ場所が学校なのだと思います。

 

ほんと、そう思う。

 

小学校だったら、こちらの大阪市立大空小学校のような学校がもっともっと増えてほしい!↓

blog.goo.ne.jp

 

少しずつでも、着実に変わっていくと思うし、変わらなければ、と思います。

そのためには、まずは大人たちの一人ひとりの意識を変えること。

 子どもたちは、いつだって、大事なことを教えてくれ、大人たちにも、学びを与えてくれますね。