Pocket Garden ~今日の一冊~

大人も読みたい、大人こそ読みたい、大人のための児童文学の世界へご案内

いい物語ってなんだろう

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いい物語って、心を大空へ羽ばたかせてくれますよね!

※毎週月曜・金曜の19時~21時の間に更新中!

(できるだけ19時ジャスト更新!ムリだったら、21時までに更新笑)

 Facebook『大人の児童文学』ページもよかったら♪

 

今日はいただいたご質問に対するお返事を書いてみようかと思います。

 

先日ご紹介したコチラ↓

jidobungaku.hatenablog.com

 

に対し、Facebook上の『大人の児童文学ページ』で以下のようなコメントをいただいたんです。

 

ご意見を伺っても良いでしょうか。

最近人気の絵本・児童文学は狭い人間関係のなかででどうやって生きていくか…という、大人の問題を子どもに丸投げしている作品がやたらと目に付くように感じています。「親子とは」とか「嫌いな子がいたときは」とか。

 

でも私が子どもの頃に本に期待していたのは「他人がどうかではなく、自分はどうあるべきかを問え」というメッセージだったような気がするのです。あるいは、リアルな人間関係をうち破るスケールの大きな物語とか。昨今の児童文学の閉塞感と、テーマの狭さは連動しているようにも思えるのですが、考えすぎでしょうか。

長くなってしまいましたが、ご意見をいただければ幸いです。

 

えー、私のような者が意見だなんて、おこがましいわ……と思ったのですが、ん?待てよ?さんざ普段こちらのブログで言いたい放題意見してるのだから、ここは興味深い“問い”をいただいたのだから、考えてみたいなと思いました。

ナルホド!大人の問題を子どもに丸投げかあ……考えさせられます。

みなさまのご意見も、ぜひ伺いたいなあ。 

 

『ハッピー・ノート』は書いたとおり、私は終始主人公にイライラして読みました。『ハーブガーデン』も。

 

私には合わなかったけれど、でも、これを読んで「私だけじゃなかった!」「私の気持ちがここにあった!」と思って救われる子もいるのかな、って思ったんです。

ところが、学校司書をしている方からはこんなご意見が……↓

 

これねー、、出す方多いと思う。

多分、“子どもたちのリアルに寄り添う”って気持ちなんだと思う。

だが、しかし!

これは、子どもたちの[感覚、感情]のリアルじゃない、大人がセンチメンタルに作った箱庭みたいなリアル。

だからねー、実は、子どもたち、ピンときてない、、笑

「いい」って言う子もいるのかな、、わたしは聞いたことない。

大人は好きだよね、この本は。大人が読後絶賛ってのは、聞く。

ちなみにーー、、わたしはインナーはチャイルドだもんで、好きでない。鼻につく、、ツマンナイ、読むほどでもない。って感じでした。

 

あ!そうよね、子どもたちを見くびっちゃあ、あかん!って、このご意見読んでハッとしたんです。

 

“あなただけじゃないよ”っていう寄り添うメッセージは大事なことだと思うのですが、あまりにも直接的すぎるというか、答えのようなものを簡単に提示しちゃってるというか。

 

人間だけが世界じゃない!というもっとスケールの大きいものや、一見関係ないような物語(←ココが大事)を差し出しても、子どもはそこから自分で、“自分だけじゃないんだ”ということや、さまざまなことを学び取ると思うんですよね。

 

私も、“〇〇の場合は、どういう本がいいと思いますか?”と色んなパターンを聞かれることがよくあるのですが、テーマが狭いときは、いつもモヤモヤします。テーマがあるから、なるべくテーマに沿ったイメージや、“答え”的なものが書かれている本をどうしても出しがち。でもね、心の中では、本当は私にとっては、こういう物語が一番響いたんだけど、でもこれは相手には伝わらないだろうなあ、とか躊躇してしまう。相手が“分かりやすい答え”を求めてるから。

 

例えば、人間関係に悩んでる子が『長くつしたのピッピ』読んだら、急に元気になるかもしれない。『大きな森の小さな家』や『楽しい川辺』を読んだら、自分の悩みを忘れちゃうかもしれない。でも、友だち関係に悩んでるんですけど、いい本ありますか?と聞かれてそれ差し出しても、大人は“へ?”ってなる気がするんです。

 

一見関係ないように思える物語たち、それは、現実逃避ともちょっと違う。急に世界が開ける感じ。本当に響く物語って、狭いテーマで書かれていないことが多いんですよね。だから、そのときどきで響くところが違う。自分がそのとき持ってる“問い”次第で、印象に残るところが違う。そして、それは作者や手渡す人からメッセージや価値観を押し付けられるんじゃなくて、読む人が自分で自分に響くところを発見するんですよね。

 

今日はちょうど昨年話題になったコチラのベストセラーを読んでいたのですが、そこにも、ああ、と思うことが書かれていました↓

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スマホ脳』(2020年)アンデシュ・ハンセン著 久山葉子訳 新潮社

 

SNSなど情報の渦にいる子どもたちは、常にご褒美が手に入る状態。クラシック系の楽器を習う子が激減しているそうなのですが、それは今の子どもは即座に手に入るご褒美に慣れているから、すぐに上達できないとやめてしまうから、なんだそう。

 

読書でも同じかも。即座に入る“答え”らしきもの、ご褒美を求めてしまう。でもね、それは子どもというより、差し出す大人のほうなのかも。物語が面白ければ、子どもたちは夢中になるし、そこから今の自分に必要なメッセージをつかみとるもの。自分で。子どもたちを見くびっちゃあいけない(←大事なことなので、何度でも言います笑)。

 

誤解なきよう、『ハッピー・ノート』が子どもを見くびってる、と言いたいのではないんです。色んな本があっていいと思うので、共感できる本があるのはいいことだと思ってます。ここから、次の本に、世界に広がれば。ただ、差し出す大人があまりにも狭いテーマや、直接的な”答え”のようなものが書かれているものばかり差し出す傾向に、見くびるなと言ってるのです。偏っている。

 

リンダ・ホーガンという人が『大地に抱かれて』という本の中でこんなことを言っています↓

 

「物語」といわれる作品は、小説とちょっとちがって、個人の問題よりは、積み重ねられた人類の知恵を語る。そして、そのために人物よりは出来事を、場所よりは時間の流れを追う

 

狭いなあと思う児童書は、物語ではなく、小説になってしまっているのかもしれません。自分にぴったりのテーマで、共感できて一気読みするわりには、モヤモヤは晴れない。狭い世界から抜け出せない。

 

児童文学の良さってね、人間だけが世界じゃないよ!って見せてくれるところにあると思うんです。動物だったり自然だったり、はたまた異世界だったり。

 

直接的な答えがなく、追体験によって自分で答えを見つける分、すぐには分からないけれど、じわじわ効く。 何年もかけて血となり肉となっていて、気付いたら困難に陥ったとき支えになってくれていた……それが私が考えるところの児童文学です。

 

言語化できないけれど、なんかワクワクする!気付いたら元気になってた!仲間外れにされても大丈夫になってた……自分には違う世界があるから。それで、いいんじゃないかな。そして、そういう物語を、すっと差し出せる大人になりたいなあ、と改めて思いました。

 

ご質問いただいた、Mさま、考える機会をいただき、ありがとうございました!!!