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今日の話題は、絵本VS児童文学!
【絵本と児童文学は敵対しあってる!?!?】
えええー、とお思いでしょうが、面白いことに絵本好きで活動されている方は、児童文学に親しみがない方が多く、逆に児童文学に熱心な方は絵本を軽んじてる方を多くお見受けするんです(当社調べ笑)。ただし、学者の方や絵本・児童文学の両方を置いて家庭文庫をやっている方々は別です。
私の中で、両者に区別はあまりなかったので、そういう方に出会うたび驚きました。でも、実際多いんです。絵本好きの方は、当然児童文学もお好きだろうと思い込んでいたのですが、「私、絵がないのは苦手なんですよねえ」とか「あ、私、本は読まないんです~」とか言われる。読む人でも、大衆小説は読むけど、ここで紹介しているような児童文学には全く興味のない方が多いんですよねえ。古典名作は昔読んだわ、というのはあっても。
特に社会的なテーマのものを紹介すると、「え、これが子ども向けなの?」と驚かれることもあって、そんなとき児童文学とカテゴライズされる分野のマイナーさを悲しい哉、ひしひしと感じます。読まなきゃモッタイナイですよ~!って声を大にして言いたい。
一方で、児童文学に熱心な方は「もうね、絵本は卒業」とか言われます。卒業ってなんや!?子どもっぽいとでもって思うのでしょうか...。個人的には絵本も文学だと思っています(ただし、赤ちゃん絵本をのぞく)。
赤ちゃん絵本が果たして文学なのか疑問だった私は、小宮由さんの講演会に参加したときに質問で聞いてみたんですね。そしたら、小宮さんはハッキリと、「あれは文学ではありません。道具です」と答えられたんです。モヤモヤしたものがスッキリしました。
【文学を感じる絵本3選!】
ちなみに私が、「ああ、文学だなあ」としみじみ思う絵本はたくさんあるのですが、あえて3選にすればこんな感じ。↓
実は表紙絵がちょっと不気味で、図書館に面出しされてても借りようとも思わなかったんですよね、子どもが手に取るまでは。もうもう、涙なしには読めない。嗚咽しちゃうくらい胸に迫る物語でした!この時代に生きていないのに、この郷愁感は何なのか。
じいじにも勧めたら、じいじの俳句仲間の間でもみな大感動。文学だね、って。
二つ目はこちら↓
孤独な老人と、青年の心あたたまる交流の物語。人生っていいもんだなあ、としみじみ感じさせてくれます。静かな感動をくれる物語。
3つ目はこちら↓
【絵本と児童文学の違いは、手渡す人】
私の中で、絵本と児童文学の境はあいまいなのだけれど、当然明確な違いもあります。
それは手渡す人の違い。以前ブログに書いたことを再掲します↓
絵本の読み聞かせは、やはり親子のものであってほしい、ということ。幼稚園や学校での、読み聞かせももちろん意味あるもの。でも、それと親子はやっぱり別もの。だって、内容というよりも、隣で寝ころんでいたり、お膝の上だったりする、ぬくもりの記憶が絵本の記憶。絵本を読む時間は、親を独占できる時間。安心に包まれた幸せな時間。
ただ、児童文学の場合は、別!
って個人的には考えています。誰か手渡す人がいないと出会えない素晴らしい児童文学って、いーーーっぱいあるんです。むしろ、素晴らしい児童文学ほど表紙が地味だったりするから、自分からじゃ見つけにくい側面があるのかな、とすら思う。
手渡す人が必要。
でもそれは親じゃない(ことが多い)
なぜ?
だって、これを読む時期は、子どもは親から自立したいんですもの。
親の手助けなしに、成長したいんだもの。絵本が母子一体の時期に出会うものなら、児童文学は分離の時期に出会うもの。共同から個人活動へ。
親から手渡されたら、実は興味があってもむしろ反発することもあるかもしれない。どんなにいい内容でも、親が「こうあってほしい」と願う価値観の押しつけになりがちだから。そして、子どもはそれを敏感に察知するから。
特に思春期は、ふとした第三者や友だちから手渡されたほうが、素直に受け取れる、そんな気がしています。だって、誰かに聞いてもらいたいけれど、でも親には自分に悩みがあることすら気づかれたくない、そんな子も多いと知りました。
(こんなこと書いておきながら、私自身は、親から勧められた本いっぱい読んできた人ですが 笑)
だから、私は‟大人に”児童文学の魅力を伝えたいなあ、って思うんです。親以外で、さりげなく手渡せる人を増やしたい。というわけで、今後も地道にコツコツ、大人に向けてブログを綴っていこうと思います。
で、そもそも児童文学って何なんでしょうね?次回はそんなことについても書いてみようかと思います!