藤沢市の図書館で行われた、海外児童文学・YAの翻訳者である原田勝さんの講演会に行ってきました。
原田さんの訳されるものって、戦争や差別をテーマに扱ったものが多いんですよね。
ちなみに 原田さんの翻訳したものの中で、私がことあるごとに人に勧めまくってるのはコチラです↓
(ちなみに、読んだ当時お手上げ状態に荒れていた長男。あの頃はなんだったんだろう?というくらい今は落ち着いております。明けない夜はない。)
さて、このようなテーマのものばかり気づけば翻訳している原田さん、ご自身でもなぜだろう?とこの講演を頼まれたことを機に考えてみたそうです。
そして、大きく分けて3つの視点をあげられていました。
- 外国文学であることの意味
- 文学による疑似体験
- 登場人物・読者が子どもや若者である意味
まず、①ですが、外国文学であること自体に意味があると。なぜなら人は身内(同じ民族)のことだと感情的になりがちだから。
距離を置いて客観的に俯瞰で見れるからこそ、他の国の例を通じて自国の戦争・差別を冷静に考えることができる。
確かに、それってある!
あまりにも身近だと感情的になるだけでなく、私の場合は無力感にさいなまれてしまうんです。立ちはだかる壁が大きすぎて。
何かできることがあるんじゃないかと思う前に、「ああ、どうせ無力だし」ってなりがち。だから、ちょっと距離がある、って大事だなあとしみじみ。
②もホント大事。
授業での‟情報“ではなく、文学の形で経験できることが大事とおっしゃってました。小説の中で、彼らが何を考えてているのか知るほうが、自分で考え、感じると。当事者意識を持てるってことですね!
教育現場で足りないのはこれじゃないかな。情報はたくさん与えられる、テストのために覚える。でも、そこに実感はない。だって、体験してないから。
また、読書は基本的に一人で行う営みであるので、それを通じて問題を深く認識する可能性も述べられていました。
戦争や差別テーマのものを読むと、常に「私ならどうした?」「そうしないと言える?」と問いかけられます。
周りの意見に左右されることなく、自分の内面との対話があるんですよね。
みんなでディスカッションするのも、それはそれで色んな思いや考えを聞けて新しい発見があるけれど、その前にまず一人で向き合う。
その時間が大事。
③は、戦争においても、差別においても、子どもや若者が一方的被害者となる確率が高い弱者だということ。
その若い読者たちが、人生の早い段階でこれらの疑似体験をしていれば、その後の人生のさまざまな局面において、よりよい判断をするベースにできる可能性があるのではないか、と。将来、戦争に加担しない、差別をしないという抑止力を持つ。
そうそう、だから、私は大人と呼ばれる人たちにも読んでもらいたい。未来の大人(今の子どもたち)が抑止してくれるんじゃ遅くて、私たちが食い止めないと!!!
お話の中で印象的だったのが、実際に原田さんが接している若い世代、今の子のほうが昔に比べて情報が豊富なはずなのに、異文化に対して基本的なことを知らなかったりする、というお話。情報が多ければいいってものじゃない、何を手渡すのかが大事、と。
手渡す人が必要なんですよね。
手渡す大人が増えれば、手渡される子どもも多くなるのではないか、と今日もこれからも細々とでも、例えハチドリのしずくでも、私は大人のための児童文学を紹介し続けていきたいと思います。